絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

ゲームについてのメモ

 アメリカ産の大人(年齢)向け血みどろゲームが好きです。日本のそういうゲームは昨今パズル要素が強くて爽快感が足りないように思います(端的に言うと謎解きはどうでもいいからブッ殺したい)。最近はゲーセンで「セイギノヒーロー」ばっかりやってます。正義の名の下にやくざ皆殺し!テロリスト皆殺し!頭だ!頭を狙え!アクションやガンシューばかりやって、RPGに近づかないのは、たぶんキャラクターや背景が自動的に前に進んでくれないからだと思いました(最近のSTGは弾が多すぎて意味がわかりません)。
 ゲームをやっていると頭が悪くなります。6年くらい前、自分がヴァーチャロンというゲームにハマっていたことが、証拠です。筐体の中でだけ通じる反射神経の発達は、確実に脳をアレです、ホラ、ゲーム脳。言語野まで侵されたようです。
 というようなことを頭に浮かべていたら、とても面白い考えに出会いました。

人間は道具を使わないとすぐ死んでしまうので、道具を使うのが得意な人が生き残りやすく、今生きている人は大体が道具を使ったり何か技術を習得するのが大好き、あるいはそうしないと怠けているような気分になって、落ち込んでしまう人たちばかりのはず(僕は後者です)。
(中略)
道を歩いているときに犬を見かけると、確実にその犬のことを大好きになってしまう。なんとかしてその犬を手に入れても、彼/彼女は毎回その時点で犬に対して抱いていた特別な感情を失ってしまい、ただの犬のようにしか見えなくなります。自己鍛錬欲とは大体この様な物です。
id:K2Da:20050208#p1(侮りについて)

 以前紹介したディフェンダーというゲームに出てくる侵略者は、とても簡単なアルゴリズムに従って動くのですが、まるで知性があり、悪意を持ってプレイヤーに接しているかのように見えます。それは、絶妙なタイミングで不快感をプレイヤーに与えます。
 人間の中にも、絶妙な不快感を与えてくれる存在があります。それらの存在は、悪意を持ってこちらに接してくる、異常な人間に見えるかもしれません。けれど、もしかしたら、それらの人間は、ゲーム内のキャラクターと同じように、とても簡単なアルゴリズムで動いているだけなのかも。
 という風に「侮り」は自己防衛のために発達したのではないかと思います。
 
 ところで、人間同士の関係で、一番使われることが多い道具は言葉だと思うので、こんなコピペを作ってみました。

テキストサイトに付いた読者にしろ、オフ会での人気にしろ、サイトを止めた瞬間に意味のない投資になってしまう。ブログは他人が沢山いて、実際に人間(論敵)を打ち倒したり出来るので技術を習得した感が強く熱中しやすいけど、その分、止めたときに無駄な時間を使ってしまったという後悔も大きい。でもそれはブログが悪いのではなく、単純に楽しかったと割り切るか、それが出来なければ止めずにいつまでも続ければいい。言葉や絵を一生楽しめる人は途中で虚しくなったりしないのだから、いつか可能になるはずだし、それを待ちたい。

 このエントリは結論を決めないで書き出したのですが、何が言いたいのか、自分でもわからなくなりました。おわります。