絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

今から子供じみた反応をします。

キーワード無神論に熱い修正の嵐が!

神の存在を否定する主張、あるいは信念。
狭義では、ヨーロッパにおいて発達したユダヤキリスト教的な一神教についての否定論をいう。
不信仰や異端信仰とは区別されるものとしての自覚的な無神論は近代において成立した。
理論的な主張として神が存在しないといわれる場合、積極的に存在しない根拠を述べるもの、存在をしめす証拠がないとするもの、神という概念の必要性を否定するものなどがある。最後の類型ではオッカムの剃刀が言及される事が多い。
関連で、存在を示す積極的な根拠もないが否定する根拠もないという不可知論がある。
「神がいるかいないか」、というのはそれ自体一神教的な問題設定であり、神とは何か、神がいるとはどういうことか、いないとはどういうことか、などが定義されなければ意味をなさない。
神の存在証明は中世スコラ哲学などでしばしば重要な問題とされてきた。
たんにユダヤキリスト教的な一神教の神の概念を持たないことは厳密には無神論とは異なる。無神論は自覚的で、かつ、一神教的な神の概念を神の定義としていちおう受け入れたうえでの主張である。
多くの場合、無神論は、世界の摂理の主宰者、あるいは体現者としての神の側面が問題とされ、世界に倫理的秩序が不在のように感じられるとき、かつ、一神教的なそうした神の側面が前提として受け入れられているとき、問題として取り上げられることが多い。
一般的に信仰の、あるいは、哲学的・理論的なものとしてではない信念の問題としての無神論は、一神教的な諸前提を、信念としてすでに受け入れた上で、神の存在という核心部分について、それを信じることができない、受け入れられない、という場合に生起する。そもそも一神教的な神の概念について知らなかったりそれについて重要な関心を持っていない、あるいは異なる一神教的ではない信念を持っている場合は、「神がいるかいないか」という問題の設定の仕方そのものが無意味であったり、想定外なものとなる。
(キーワード無神論における、id:jouno氏による追加部分の引用)

 後半は、要約すると「神を信じない世界では、無神論者にはなれない」ということらしい。それならぼくは、無神論者に当てはまるわけだよ。子供の頃に一神教の信者であった過去をひきずりながら、一神教的な諸前提を、信念としてすでに受け入れた上で、神の存在という核心部分について、それを信じることができず、受け入れられないのだから。
 だけどその定義が適当かというと、疑問が残る。だって信念として受け入れる前に否定的感情を得るひとは、じっさいにいるわけじゃん。神なんていねえよ、一神教だか多神教だか知らねえけど、って。
 神について論じるってのは、そういうひとを排除するってことなのかな、id:jounoさんにとっては。だとしたら随分傲慢で恐ろしいことだよ。
 あとキーワードで笑いをとろうとするのはダメだ、怒られた。