絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

ここ一週間というもの

 映画を見る余裕もなくて困る。章立てされている本は、空いた時間に少しずつ読めるからいいけれど、映画はそうもいかない。
 さて、そんな映画欲を鎮めるべく、DVDプレイヤーを知人から安価で譲り受け、DVDソフトを借りてみた。鈴木清順の『殺しの烙印』だ。寝る前のおよそ一時間半を映画で埋める、見終わったら布団の中で眠ればいい。贅沢な時代になったものである。
 ところが、気づくと朝なのだ。黒く光るモニターがこっちを見ている。
 曖昧ながらどこまで見たかはおぼえている、だから翌日の夜も、キャプチャー機能で該当シーンを探し、続きを見た。また寝てしまった。ぎゃあ!映画を観ながら寝るとは!
 『殺しの烙印』が退屈なわけではない、白黒映画だから催眠効果があるわけでもない、なのに二度続けて寝てしまった。なぜだ、これはなぜだ。
 思うに、自宅で映画を見るという行為自体が、体に拒否反応を起こさせたのではないだろうか。そして、章立てされた本のように、どこからでも観なおすことのできるDVDというメディアの特性が、更に心をリラックスさせ、心地よい眠りへといざなったのだろう。
 映画を見るというのは「映画館に行く」という神聖にして犯すべからずな儀式なのだ。オロソカにはできねえのである。それをおれは、身をもって体感したのだった。
 ……書いててなんだか初老のコラムニストがやっつけで書いた文章みたくなったので、面白いことであるなあ、今更DVDプレイヤーを買ったってのも間抜けでいい。じっさい年をとったことを痛感する、踊りにも行かなくなったし、酒を呑みに行く回数も減った。社会のことに目を向けた文章ばかり書いているのは、本業が充実しているからだが、金回りは相変わらずよくないし、スケジュールの組みそこねでイラストの仕事を落としたりもしたので、煙草の本数は増える一方だ。
 そうそう、ぼくの好きな映画監督がハリウッドで仕事をするらしい。面識はないが、なんだかとてもうれしい。こういう風に自分の存在が希薄になって、感情を委託できる誰かが成功することに素直に喜べるようになるのも、年をとるということなのだろう。
 死ぬ前に人間は溶けてひろがるのだ。