絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

女が出ないわけ

 小島くんにシナリオみせたら「麻草さんの話には女が出てきませんね」って言われた。ほんと全然出てこない。その理由はたぶん、男同士の関係に女が絡むとロクなことがないと思っているからだろう。だから、男女間の話を書きたくなったら、当然女を出すし、女の話を書きたくなったら、女を出す。
 でも、今映像で作りたいのは男同士の話なので、女が出ない。行動原理に女が関係しない。
 だって、男同士が女を間に挟んで争う話なんて、嫌だもの。
 好んで観ないし、撮る気はまったく起きない。多分そういう行動原理の男が苦手だからだ。惚れた女のために命を賭けるのとかはいいけど、友達と喧嘩するとかじゃ嫌だ。そんなの女がいなくてもできるよ!と思う。そうだ、女が何かの代用品に見えるんだよね、取り合うって話だと。その女じゃなきゃダメなんだ、というのがほしい。だから『ヘルボーイ』みたいな、絆の物語とかが思いついたら、書くと思う*1

*1:ところで、偶然だが、先日そんなグヂグヂした舞台を仕事で見た。演じられていたのは、映画『アマデウス』で有名な脚本家ピーター・シェイファーが書いた戯曲『自分の耳』。これは、一人の女と、その女に惚れた男と、その男に仲介を頼まれた伊達男の三人が織り成す悲喜劇だ。新劇の流れでは好まれているらしく、そろいの戯曲『他人の目』と共に、よく上演される。内容は単純で、お膳立てをした伊達男に女が惚れてしまい…というもの。シナリオとしては面白いが、長台詞が多く、面白さは演技力に大きく左右される。当然観に言ったバージョンは演技力に左右されちゃってて、目も当てられなかった。