絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

死体がいっぱい

http://www.adamszrotek.com/puloweren.htm
Weekly Teinou 蜂 Womanより)
 動物や人間の演出された写真のサイト。死に関するものが多い。
 で、写真はとてもいいんだけど、気になったのが「言ったからな、書いたからな、クリックしてから文句とか言うなよな。」という土屋さんのコメント。おれは土屋さんの選ぶニュースが好きな場合が多いので*1、わからないのだけれども、きっと見てから文句を言うひとが絶えないのだろう。いちいちメールなどで文句を言うひとは、蜂女のどこが好きで見ているのだろうか。文句があるならはてなでも何でも借りて書けばいいのに。とにかく、こんなに毎回注意しなきゃいけないのは、とても大変だと思う。一日に何千人も見てくれたら、うれしいだろうな、って思うけど、こうやっていちいち断らないといけない、と考えると、面倒だ。
 今でも冷凍庫を採り上げてもらったときの上に書いてあった「ひとが面白いと思うものに対して『そんなのどこが面白いの?』って聞く行為そのものは、全然面白くないよ(要約)」ってのが、よく頭に浮かぶ。わからないなら、黙っていろということではない、わからないことに、なぜ否定的になれるのか、ということだ。その行為は、笑いにはつながらない。(漫才で「わからないよ!」と突っ込むことが笑いにつながるのは、前提としてのボケがあるからだ、理屈が通っていたらそれはボケではない)
 理解できないことを、理解できないという理由で、否定できてしまうのは、なぜだろう。
 自分が「理解できないこと」を理解できないという理由で否定する場合を想定してみよう。それはダメだ、と決め付けるときは、その理由が、感覚的なものであったり、生理的触覚的である場合に起こると思う。たとえばおれは道端で理由もなく唾を吐く行為がいやだ、吐いている人物が「吐く」ことによってひとに与える印象を想定していない場合。おれはとても不快感をおぼえる。何でするの?と思うのだ。例外として、その人物がやくざやチンピラであり、道端で唾を吐く行為によってアウトローである自分を主張する場合や、唾がたまって仕方ないが吐く術しか処理の方法がない場合などは、許容できる。じっさい自分も道を歩いていて突如嘔吐感に襲われたとき、仕方なく胃液を植え込みの中に吐くことがある。人目を避けながら、だが、行為としてはなんら変わらない。
 ひとによっては道で吐く行為全般を否定する場合もあるだろう。
 なるほど、面白さはほんらい理性的であるべき世界に異常な瞬間が訪れることによって起こる、一種の生理現象だ。ならばその生理現象を見て、各自の基準に従って否定肯定を決めるのも、道理ではある。
 わからないことを、わからないから否定するのは、そういうことだ。世の中には、他者の生理現象に口を出すひとがいる、ということがわかった。
 そのようなひとに対する気遣いが、土屋さんのコメントなのだ。いちいち言うなよ、わかっているよ、と。なんという慈愛だろう。おれはやっぱり放っておいてしまうなあ。そこが人間としての器の違いか。

*1:別に冷凍庫を採り上げられたからおべっかを言っているわけではない、全部が全部好きなわけでもないし