絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

 さいきん寝ているときに目がさめると、呼吸が浅くて体が動かないことが多い。あまりに浅く、ほとんどしていないので「これでは脳が死んでしまう」と、息を吸おうとするのだが、肺も思い通りにならない。頚動脈が絞まっているのか、気道が閉じているのか。
 どうも「脳に酸素がいかないで死ぬかあるいはバカになる」という恐怖心が強くて、困る。となりでひとが寝ていると、いつも呼吸を確認してしまう。じっと見てしまう。脳がバカになってもぼくはこのひとと友達であるぞ、と考えたりする。たいへん失礼である。
 実は上記の呼吸不全っぽい感じは、世の中で言うところの金縛り状態なのだと思う。脳だけが目をさましてしまい、体がめざめない状態。ひとによっては幻覚や幻聴を体験するらしいが、ぼくの場合は「呼吸していない」という幻体験をするというわけだ。
 いや、じっさいに呼吸は止まっているのかもしれないが、脳が不可逆な状態になったことがないので、わからない。それを言い出すと、ベルトで首を吊ったときや、良くない煙を吸ったときに、多量の脳細胞が破壊されているはずで、もしかしたら今の状態が既に不可逆な状態なのかもしれん。

 これべつに悪趣味じゃないなあ。いや、これ、前回の続きなのだ。
 id:toiくんのコピペ改変を見て、面白いと思ったぼくはリンクしたのだけれど、id:toiくんの文章の中に、ぼくのわからないパロディがあって、ぼくはそれを本当に間違えていると思い込んでしまったのだった。そうしたら、id:toiくんはおおいに傷ついて、謝罪を要求したってわけ。でもこれって昔ネットのごく一部ではやった「本当はそんなに怒ってないけどね」というクリシェなのだ。
 ところがid:toiくんは、続けて「精神的に傷ついてリストカットしたくなっちゃった!リストカットしたら心配してもらえるかも!構ってもらえるかも!なんかリスカってかっこいいし!」と書いてきた。しかもその下で反省文である。これはギリギリだ、どのくらいギリギリかというと、電車の中でコートを着て、見えないけどちんぽ出てます!ぐらいギリギリ(アウト?)。
 だって、前提としての「Web上での謝罪を要求汁」を知らないひとにとっては、そのあとのぼくのコメントも含めて、真顔でやりあっているように見えるのだもの。
 そしてid:toiくんもまた、どこまでが遊びなのかわからなくなり、不安に思ったのだ。だから、卑怯だけど、遊びとしての悪趣味合戦は、ここで終わり。

 悪趣味の醍醐味は、自分が正しいのか間違っているのかわからなくなるところにあると思う。どこかで読んだ誰かの歌「後ろ向きでいこう、後ろが前かもしれないよ」みたいに、結局前向きなんじゃねえか、とか、そういうのは良くない。そういう解釈は、読者に任せなければならない。『完全自殺マニュアル』を、自殺教唆と読むか、自殺防止と読むか、それは読者の自由だ。

 ぼくは「リストカットタトゥー」を、中途半端なアート気取りのいたずらとして、本気で「なっちゃいねえ」と批判した。なぜならそこには意見があったからだ。意見するためのパロディなど、矜持も何もあったものではない。くだらない意見を表明したいなら、芸術という衣を被るのは卑怯ではないか。
 しかし、相手が芸術であると主張するならば、そのような批判は「理解不足」と退けられる可能性がある。じっさい、掲示板を置きながら管理者が対応しないのも、混沌とした状況を生み出すための装置なのだ、という解釈が成り立つ。つまらない意見は、つまらない意見だから意味があるのだ(まァこの方法で便器や傘とミシン台は芸術足り得たわけですが)。

 だから、改変コピペなのだ。

 id:toiくんが自分の文章をコピペ改変したときの衝撃ったらなかった、意味が裏返り、真剣さは容易に間抜けさへと変わる。これが「笑う」ということだし、これが「面白い」ということだ。自分自身の間抜けさと向き合うこと、真剣に命をかけて適当にやること。矛盾と混沌の中に身を浮かべて泣きながらニヤニヤすること。脳の中で信号をループさせながら、死んでいるのか、生きているのかわからなくなること。さいきん寝ているときに目がさめると、呼吸が浅くて体が動かないことが多い。

 生きることに意味はない/あると認めること。