絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

 あるひとが某所で

モーニング娘を過剰に肯定してる人は、それで金儲けしてんのかな?っていう想像をしてしまった・・・。

って書いているのを読みました。金儲けしたいなあ、できません。凡人から搾取しようという発想も思いつきませんでしたよ、何しろぼくが凡人ですので……。

 で、過剰に肯定するひとは、なぜ過剰に肯定するのか、ということを考えます。
 好きなものを肯定するというのは、そのものを好きである自分を肯定することになります。これは、自己愛です。この場合の自己愛は、精神的な侵略に対する抵抗として、表に出ます。
 精神的な侵略に対する抵抗とは何か。
 自分が自分である、と思うのは、自分が自分であると思った部分が、自分が思わない形で変化しないからです。手のひらはみつめていても手のひらであることを忘れませんし、見つめていない間も何か別のものに変わったりはしません。同じように、自分が好きだと思ったものも、自分が考えていない間に、勝手に変わったりはしないものです。
 他のひとに、好きなものを評価されたことによって生まれる不安とは、自分が勝手に変えられてしまうことへの不安なのです。
 そこで、ひとは、好きなものを過剰に肯定し、そのものを好きであることを、自分の中でゆるぎないものにしようと努力します。
 自分が自分であるために、自分を守るのです。

 ぼくが「モーニング娘。を含むアイドル全般の評価軸は事件としての『運動』でしかない」として質問そのものを否定したのも、同じ心の動きです。
 演劇や映像を生業にするぼくにとってみれば、ステージの存在を無効化する発言には恐怖を感じますし、観た上で「平凡だと思います」と声高に主張されてしまえば対話の必要はありません。なぜ感じる意欲のないひとに、楽曲と演舞を融合させた情動に刺激を送る構造や、引用や表現の多様性を解説しなければならないのか?「わからないから教えろ」との発言には、憤りすら感じます(めんどくせえな!という意味です)。

「それじゃあ、ひととひとはわかりあえないのか」と悲しい気持ちになったひとは、この文章全体に注目してください。ぼくは、あるひとがプライベートな場所で発した疑問に、勝手に答えました。これは身勝手な行為であって、相互理解とは言えませんが、理解への努力と言えないでしょうか。闇雲な疑問「なんで?」ではなく、仮定のある疑問「○○なの?」ならば、少なくとも「Yes or No」で答えられるのです。

(もちろん大人が発する「なんで?」には高度な社会政治的意図が含まれる場合が多いのですが、その場合は更に答える必要がなくなるため、便宜上ではありますが、素直に発せられた質問であるとします)

 もちろん、身勝手な努力は迷惑ですから、あまりしないほうがいいでしょう(めんどくせえ奴だな、と思われがちです)。