絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

 ぼくが「批評性とモーオタが共存することの不思議」について書かなかったのは、ぼくにとって、批評性とモーオタが共存することが、不思議でもなんでもないからです。

 ぼくは蓮實重彦中原昌也の文章を好み、著書を買いますが、モーニング娘。のレコードを、歌詞に対する批評的視点で買うことはありません。というか、レコードを買うという行為にはあまり価値を見出せません、むしろ曲を聴く、運動を見る、という「体験」がぼくとモーニング娘を結び付けます。
 ぼくがモーニング娘。の曲を良いと思うのは、蓮實風に言うところの「運動の美しさ」によってであって、その歌詞から意味を抽出する行為にはまったく興味を感じません。
 「運動」があって、快感に結びつき、その理由として歌詞が意味を持ちはじめる、ということと、歌詞を分解し批評して、意味を探し出すのは、まったく別のことです。
 そもそもアイドルを「歌詞」で批評することなどという行為は、野球選手の価値を打率のみで計るような、美しくない読み方に見えます。それで「蓮實視点から見るとモーニング娘。は凡庸」などと書くようでは、とても対話できる可能性など思いつけません。

 モーニング娘。の批評性は、アイドルというものが持ちえる瞬間の美を継続して生み出す構造にあると思います。

 そしてたぶん、こんなことはもう語りつくされていると思うのですが。