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id:matterhorn:20040418
その代表的なのはきっと淀川長治だろう。他にはおすぎ、最近では中原昌也。彼らの批評はまずもって「役者」が輝いているか、人間が描けているかを論じている。そして、この派はどうも「ぬけ」「すじ」の両者から「害のない存在」とも思われている。
おれは、酔うとベラベラ映画の感想を喋るクセがある。役者を真似て、シーンを再現しつつ、その演技がどれだけ良かったかを語るのだ。それを聞いた、映画批評をあまり読まない友人は「映画の本に書けばいい」などとたわけたことを抜かす。冗談じゃない、おれのたわごとなどが、金になるわけがない。役者の演技についていくら云々しても、それは批評にはならない、映画は物語の意味について語らなければならないはずだ。
ずっとそう思っていたが、どうも間違っていたらしい。
おれは「役者」派なのだ、きっと。けれどもテレビを見ない生活を選んだおれは、文章でしか映画批評に触れられない。「役者」派の書く文章は、その喋りに比べて格段におちるし、そもそも数が少ない。それでどうも勘違いをしていたらしい。
あー、すっきりした。id:matterhornさんありがとう。
(誤解を受けるといけないので補足。おれの言葉が金になるというわけではなくて、おれが映画に見ているものと、おれが映画に見たいものとのズレに気づいた、という話)