絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

「町山氏『イノセンス』に言及!」のつづきですよ!

 押井守作品における少女と、宮崎駿作品における少女の扱いは、180度違う。前者は、少女を、人間の一形態であり、成長の過程にある未だ成らざる存在として定義するが、後者は過程と成長を軸にえがきながら、その実、少女だけが持ちえる瞬間を、フィルムにとどめようとする。
 前述した、人体改造に対する感覚の違いがそこに現れる。
 押井氏にとって、サイボーグ化や電脳化、そして、少女を演じることは、あくまで変装だ。武装した兵士のように、内には肉がある。異形化は押井氏にとって形態の変化に過ぎない。だからこそ、どこからどこまでが自分なのか、という実存の問題に悩んでいられる。
 肉体改造が「何かを増やすこと」であり続ける限り(士郎正宗アップルシード』では脳を増量する技術によって手足を増やすことが可能になっている世界が描かれた)
 しかし、肉体改造を、眼鏡や、入れ歯、義手や義足のように、失ったものを取りもどすこととして捉える人間にとって、それらの考え方は無邪気で恐ろしい。 失ったものは、二度とかえらない。手に入れても、それはにせものだ。
 
 手榴弾の爆風から難を逃れたトグサが言う。
「女房と娘の顔が頭ン中いっぱいに広がって……」
「それは女房でも娘でもねえよ、死神って奴だ」と答えるバトー。
 
 これは「死を思うこと」によって想起された図像が「死を与えるもの=あきらめ」であるという意味だろう。死神とは「死ぬと思った」自分なのだ。(この会話は原作でも同シチュエーションで交わされる少ない例でもある)
 あきらめを"死"と感じるバトーは、生命(バセットハウンド)を手放せない。次世代に命を託して死ねるトグサは、娘に非生命(人形)を買い与えることができる。
 あきらめを死と感じる押井氏は、生命(アニメ)を手放せない。
 町山氏は、次世代に命を託して死ねるのか?

 前に引用した町山氏の文章には、このような前フリがある。

しかし全身人工物に変えることが可能になったらみんな美女になるんじゃないの?

 美女になりたい「みんな」とは、誰だ。
 老いた体や、不細工な体は、本来の自分を残す貴重な資料なのだ。人はおいそれと過去を捨てられず、自分以外のものになれもしない。あらかじめ失ったものでなければ、なぜそれを付加しようと思うだろうか。
 町山氏にとって、美女の体はあらかじめ失われたものなのかもしれない。

(おわり)