絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

感想と意見

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040217
 たとえば映画を好きな人がいて、その人はただ「映画」が好きなだけだったとする。その人が映画を撮ると、エド・ウッドみたいになる。映画を面白くするのは、何が映されているか、や、どう映しているか、であって、それが映画であるかどうかは関係ないからだ。
 そしてそれが嵩じるとエクスプロイテーションフィルム、搾取映画になる。そのときその時代に面白いものを詰め込んで、作られた映画。歴史には残らないはずの、クズ。
 同じように、現代アートとやらも、やっている事が芸術であるかどうか、は別にどうでもいいらしい。むしろ、芸術的でなければないほど、説明がなければわからないほど、価値は高まるようだ。
 村上隆の仕事はアートだ、だから徹底的に搾取する、金を取れるときに取っちまえ、それが彼の胡散臭さだ。彼はとてもアートが好きだから、その為に他の何を犠牲にしてもかまわない、彼を慕う弟子、彼の主催するイベントに金を払って参加する奴、皆、彼の財布だ。
 僕は彼を、ロジャー・コーマンみたいだな、と思う。本当に金を儲けたいだけなら、もうアートなんか続けないで、不動産や資産運用で食っていけばいい。でもそれをしないのは、アートが好きだからだ。
 オタクが村上隆の所業に反発しないのは、おそらくそれが商品としてはどうでもいいからだ。造形や絵にだって貴賎はないが、性欲を止揚した村上の作品はなるほど偉そうだ。その偉そうなところが金になるだけで、抜けない。抜けないからオタクは村上に金を遣わない、つまり、オタクの批判対象にならない。
 村上隆の作品は、きっとオタクの歴史には残らないだろう。消費されて、捨てられて、いつか数十年後にオタクアートの映画秘宝みたいな雑誌ができて、おじいちゃんになった村上隆が下品に笑いながら自宅に飾ってある「巨乳からミルクを噴出して縄跳びする少女」の像の前でピースサインで写真を撮られたりするかもしれない。そうなったら面白いのに。
参照
http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/focus/0402_02.html