絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

イノセンス感想

 孤独ではなかった過去の記憶を、すこしずつ思い出す。
 それが、つくりものではない、という確証は、ない。
 劇中引用される言葉の数々は、登場人物が説明するとおり「外部記憶装置」から検索して出した言葉であって、具体的な意味を指し示すものではない。「地獄の黙示録」で台詞に引用されたフレイザーやエリオットに深い意味がないように、それらの言葉は具体的な対象ではなく、その場の空気を教えてくれる。
 これは山形浩生が「たかがバロウズ本」で書いていた、カットアップのようなものだと思う。切り刻まれた言葉は、つなぎ合わされて意味をなくした言葉の羅列になる。だけど言葉の羅列は意味から逃れられず、曖昧な雰囲気を伝えてくる。寂しいとか、悲しいとか、切ないとか。そういうぼやけた気持ちだけが、バラバラな言葉のつながりから浮かんでくる。
 物語の筋が単純なのは、その「バラバラな言葉のつながり」をわかりやすい位置に置くためだ。カットアップした言葉を紙に貼って、本の形にするみたいに。苦い薬を、カプセルで飲むように。
 ばらばらな言葉のつながりから浮かんでくるのは、何だろう。
 昨日見た林檎と今日想像した林檎。二つを同時に思い浮かべてみよう。脳の中に浮かんだ二つの見分けはつくだろうか。僕たちは、それが不可能だと知りながら、その二つを見分けなければならない。アラン・チューリングホモセクシャルだった。チューリングテストとは「男」と「女」をカーテン越しに見分けることは不可能だと証明するテストだったとする説もある。
 この映画を観るのは、自分の中にある孤独や不安に対面することだと思う。だけど、それが辛く苦しい体験にならないのは、これが優れた映画だからだ。
 君は一人だが、一人ではない。