絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

山本弘著  神は沈黙せず(アソシエイトプログラムリンクです)
 この本には、トンデモな人がトンデモな説を信じるのはなぜなのか、と問い続けた著者の答えが書いてある。トンデモの人は心が弱いからトンデモな説を信じるのではない、トンデモの人は頭がおかしいからトンデモな説を信じるのではない、トンデモの人はトンデモな説に逃げているのではない。人は誰もが「その方が当人にとって合理的」だから、虚構を選ぶのだ。それはトンデモな人の特権ではない、トンデモな人の障碍ではない。人間誰もが持っている、当たり前の機能だ。それを人工知能問題とからめて物語の根底に置き、爽快感のある娯楽小説であり、深遠な主題を持つ成長小説であり、激しい空想科学小説であり、痛快な悪漢推理小説である本書を著した山本弘って人は、私はずーっと女ターザンが好きな人としてしか知らなかったんですが、まあすごい、まあすごいSF作家だったんですねえ。
 著者は以前から「自分の方がよほどうまいトンデモ本が書ける」というような事を自著で主張していた。様々なトンデモ説を利用して書かれた「神は沈黙せず」は、その偽りない証拠だ。ただひとつ問題があるとすれば、著者の解説どおりの本書は、著者の意図どおりに楽しめるものであり、著者の意図とは違う部分で楽しむとする「トンデモ本」の定義からは外れているという点だけだ。
 アマゾンに載っている感想は、あまりにも参考にならない。物語に結論が出ていないと断ずる人は最後まで読んでいないか、落丁本でも手に入れてしまったのだろう。頻出するトンデモ説の描写や、それらを批判する場面は、小説として読めば「批判の為に書かれたもの」ではない事がわかるはずだ。
 たとえば南京大虐殺についての問答は、証拠の提示も含めて長すぎる印象を拭えないし、著者が小林よしのり氏の「戦争論」を批判していた事実を知る者にとっては、現実ではグダグダな議論を小説内で片付けたように見えるかもしれない。けれど前提を取り払って見れば、それらの、南京大虐殺を肯定する証拠を提出して論敵を排除したのが、悪役である加古沢黎であって、主人公は加古沢の見事な論調に酔った、という表現の為に描かれた場面であると読める。つまり、著者がプライベートで南京大虐殺を肯定していようとも、読み進んだ読者にとってその言葉は、畏れるべき悪役が自分の地位を確たるものにする為に利用したコマに過ぎない。これを相対的見地と読むのは好意的に過ぎるだろうか?
 ともあれ、著者と同じ主張をする登場人物或いは現実に著者と対立する人物をモデルにした人物の登場を以って「著者の欲求を解消するための小説」と断ずるのは、猟奇犯罪小説を読んで「著者は猟奇犯罪をしたいという欲求を作品で解消している」と批判するのと同じ愚行だろう。あ、なるほど、虚構に没頭できない人は、そういう連想が働くのかもしれないな、現実と虚構の区別がつくからこそ、両者を混同してしまうのかもしれない。物語の中で「集団は個人の思考如何に関わらずミームによって動く」って書いてるのに「大衆は愚か」っていう主張だと思ったりとか。逆だから!それ逆だから!
 著者の不安(「リアル鬼ごっこ」よりも売れなかったらどうしよう、でも多分売れない)を解消する為にも、財布に余裕のある人はこの本を買って、星占いを信じている友達の女子に貸して連絡とれなくなったりしてみよう!
購買意欲をそそる絶賛リンク
乙一氏がジオシティーで日記を?!ていうかこれ絶賛なのか、どうなのか。
タニグチリウイチ氏も絶賛!ちょっと論旨が僕と違うけど、絶賛してるから!
まあ批判もあるって事実。山本弘掲示板「神は沈黙せずネタバレスレ」
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 「神は沈黙せず」作品を読んであなたが思い出した「過去の類似作品」を知りたい。僕はディックの「虚空の目」の前〜中盤への強い既視感をおぼえた、あの作品で僕は視点の多様性を学んだのだった。