絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

『GoGo』 第十話 『名前』

 気を失っていたのか眠っていたのか判別のつかぬ闇の中から彼女が抜け出すとそこはまだ狭い箱の中に違いなくやがて不愉快な揺れに頭蓋を振られながら痛む関節をのばそうと考えては学校と家の間に横たわる巨大な屍骸の肋骨に降る雪を思い出してその願いを打ち消した彼女が車のトランクに閉じ込められてから何度目かの尿意に耐え切れずに内臓の温度を保った体液を迸らせ衣服を纏わぬ全身を濡らした頃車が止まった。

 トランクの蓋を開けて男が言った。
「人は死ぬときに何を失うと思う。誇りか、違うな、誇りを保つための交流か、それも違う。人は死ぬと名を失う」
 冷えた外気が進入し、彼女の濡れた素肌をひきつらせた。
 名前をなくした彼女をトランクから引きずり出した男は、彼女を「エス」と呼び、山中の小屋の前に立たせた。
「今日からお前はここで暮らす」

 男は呼び名を持たなかったので「エス」は男に話し掛けることは出来なかった。
 最初の一日目に「エス」は獣の殺し方と捌き方と食い方を学んだ。男は寄生虫の存在について熱く語り、一日目の夜はそれで過ぎた。
 二日目は獣の見つけ方と捕らえ方を学んだ。これには時間がかかり「エス」が獣を口にしたのは三日目の朝だった。
 だから三日目は眠らずに眠る方法を学んだ。
 四日目に戦う方法を学び、五日目に人間の殺し方と捌き方と食い方を学んだ。
 六日目は記憶操作の方法を学んだ、男が「これ以上狂わないためには必要なことだ」といったので「エス」はやっと自分が狂っていることに気づいた。

 七日経ち、「エス」は風呂に入り服を着て町へ下りた。
 町のホテルで見たテレビが彼女の死体に暴行の痕があったことを教えてくれた。それが誰なのかは知らないが、犯されて殺された少女もまた、名を失ったのだと知った。

 かわらずあのときの記憶は曖昧だったが、ほんとうに殺したのかどうかもわからない殺人の汚名は既に見知らぬ死体が贖っていたし、血を啜る自分の姿には割と無関心でいられた。仕方のないことだと呟いて消すことの出来る記憶。
 「エス」の目の前を見覚えのある学生服の少年が角材をひきずって通り過ぎた。
 同じクラスに通っていた少年、名前はおぼえていない。
「そうか、あの子も死んだんだ」
エス」がそうつぶやくと、男が微笑んだ。
「そうだ、みんな死んでいる」
 やがて雑踏の中へ二人は消えた。