絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

話をズラす7のテクニック

ものごとを断定するやからは、いつでもあなたの前に現れます。
しかし、世界はもっと曖昧で、境界はハッキリしないはず。
そこで今回は「話をズラす7のテクニック」を伝授します。
話をズラし、対立する○○と▲▲の境界を曖昧にして、問題そのものを消し去ってしまいましょう。

1.○○と▲▲は、昔は同じものだったんだよ

基本テクです。対立する○○と▲▲を実は同じものなんだと言い切ることでその境界を曖昧にし、怒りの立脚点を不明瞭にするテクニックです。
例「山岡家と海原家は、昔は同じものだったんだよ、だから喧嘩するこたないんだ」
山岡「そういう問題じゃない」
おっとダメでした、じゃあ次のテクニック。

2.○○と▲▲の話をする前に、▲▲についての定義を聞かせてほしいな。

枝葉末節にこだわるのが、話をズラすテクニックのポイントです。▲▲についての定義が間違っていたり、曖昧だったりすればしめたもの。「▲▲についてそんな曖昧な観点からしか説明できないなら、○○との関係性も疑わしいものですね」とたたみかけます。もし明確な説明が得られても、気にすることはありません、次は○○の定義について質問すれば良いだけです。

3.○○がもし▲▲だったら、どうなるんだろう?

そんなこたないんです、○○は絶対に▲▲じゃない。でも、あえてそう聞くと、真摯な相手であれば、必ず○○が▲▲だった場合を考えます。そう、自らその境界を曖昧にしてしまうのです。その相手の言葉から自分に都合の良い部分を抜き出して、最初から考えていたかのように言えば良いのです。
相手は自分の中で納得した答えを出されてしまうので、反論ができません。でもそれじゃ、○○は▲▲じゃないんだ、と愚直に繰り返す相手にはどうすればいいのやら……

4.もっと冷静になって、そもそも▲▲とは■■であって…

相手の興奮を指摘しつつ、まったく関係ない話を持ってくる高等テクニックです。ポイントは「冷静になって」と呼びかけるところです。相手がどんなに冷静な対応をしていても、こちらからその言葉をかけられた相手は、カッとなります。なぜなら相手は、あなたがウソを言っている、と感じるからです。そこで別の話題を持ってくると、相手はカッとなっていますから、別の話に返事をしてしまいます。

5.とにかく○○と▲▲についての知識がハンパすぎるね。

2の再定義と似ていますが、相手がちゃんとした知識を持っていそうな場合に使うテクニックです。専門書の原書や英語の論文などを例えに出して「このへん読んでないならお話にならないよ」とやるわけです。知識がなければ話は終わります。相手に知識があれば、これは強烈なカウンターになるでしょう。文献の引用を繰り返しているうちに、最初の話題はどこかへ行ってしまいます。

6つまりあなたの言いたいことはこうでしょう?○○は××だと!

間違った要約をして、相手に説明させるテクニックです。手順はこう。
自分「つまり○○とは××だ、と言いたいわけだ、そうでしょう?」
相手「いや、そうではなくて、○○と▲▲がですね…」
自分「○○が××だと言うなら▲▲は■■ですね、そうですね?」
相手「いや、そうは言ってないんです、○○は××じゃありません」
自分「では、○○は××ではないんですか?なぜですか?」
相手「なぜ?ええと、なぜでしょう……」
自分で設定していない問いに答えるのは、とても難しいことです。そもそも○○が××ではないことが自明な場合、相手は絶対にそれに答えることはできません。ズラし、大成功です!

7「君が本当に言いたいのは、■■のことなんじゃない?」

全否定です。やさしく問いかけると更に効きます。
「○○と▲▲が対立している!」と主張しているひとは、それを自明のことだと思っていますから、何度も同じことを説明することに疲れています。そこで問題そのものをズラし、別の話題にすりかえるのが「本当に言いたいこと」メソッドです。ただまれに本当に「本当に言いたいこと」が別にあるひとがいて、そういうひとはズラした途端に目を輝かせて議論を再開するので、注意が必要です。

話をズラして、問題を先送りにしよう。

 さて、いかがでしたか?ズラしのテクニック、役に立ちましたでしょうか?
 結論を出さなきゃいけない問題なんて、そう多くはありません。もし断定口調で偉そうなことを書いているひとがいたら、コメント欄に登場し、このテクニックで煙にまいて、コテンパンにしてやりましょう。ブログだけでなく日常生活でも、話をズラすことでストレスはずいぶんと軽減できるはずです。問題を解決せず、次の世代に先送りして、自分たちにとっていま一番大切なことをしましょう。

注:この記事を利用して将来的にいかなる損害を被っても当方は一切関知いたしません。

カレーと肉じゃがの違い。

ここ数日こちらのエントリに対して延々文句を書いているのですが、今日、こんなメッセージをもらいました。要約して紹介します。

科学と宗教をごっちゃにしちゃ駄目だ、という話。
利己的遺伝子の話を分からないと駄目?
>人間はその原因を探るのだ。それは、生理的作用なのだ。その作用だけが、進化によって生まれたものなのだ。
原因を探る。これは生理的作用かな。どっちかというと、これこそ道具。科学のような。

 伝わりにくいのは、これが原因だったのか!と今わかりました。
 利己的遺伝子よりは『延長された表現型』という本を読んだ方が良いと思います。延長された表現型というのは、簡単に言うとこういうことです(超乱暴な説明なので、その辺は加味してください)。
「表現型」というのは、特定の条件下で、遺伝的に決定される形質のことです。たとえば、蝶々や鳥のカラフルな羽、貝の殻模様などを指します(極端に言えば哺乳類の手足とか魚のうろことかもそうです)。表現形は、遺伝子が発生に直接の影響を及ぼす範囲に現れます。では「延長された表現型」とはなにか。
 木の枝を使って巣を作る、ビーバーという動物がいます。しかし、おそらく、ビーバーは「巣を作ろうと"思って"巣を作っている」わけではない。けれど、立派な巣はできあがり、水をせき止めてダムになる。この場合、ダムは、遺伝子にとっては延長された表現型となります。
 ビーバーは生理的作用にしたがって、木の枝を組み合わせます。すると巣ができあがり、とても都合が良い環境が手に入ります。でも、あらかじめ巣の設計図が頭や遺伝子の中に入っているわけではない。あくまで、だいたいの手順が連鎖的に起こるような仕組みになっているだけです。
 この場合、木の枝は道具なので代替が可能ですが、巣へ至る道筋は代替が不可能です。
 木の枝をプラスチックのワイヤーに変えてもビーバーは巣を作ることができますが、完成する巣そのものへ至る道筋を変えてしまっては、巣はできあがらない、ということです。
 たとえ話としては、ケーキがよく例に出されますが、私はカレーが好きなのでカレーでたとえます。
 材料があって、レシピがあれば、カレーは作れます。たとえジャガイモがなく茄子しかなかったとしても、他の材料がそれなりにそろっていれば、カレーはカレー。しかし、材料と完成したあとの写真だけがあっても、カレーは作れない。レシピが肉じゃがであれば、できあがるのはカレー味の肉じゃがです。
 乱暴な要約ですが、こんな感じです。
 で、科学と宗教は、レシピなわけです。ビーバーにとっての「巣を作る方法」。科学も宗教も、それぞれに同じことをやるための、別のレシピです。同じこと、それは真実の探求。でも方法は違う、だから出来上がるものも違う。
 使う道具はそれぞれに代替が可能だから、パッと見はごっちゃになっちゃう。しかもレシピを間違えたまんま、カレーだと思って肉じゃが食ってる奴もいるから話はややこしくなる……というわけです。

延長された表現型―自然淘汰の単位としての遺伝子

延長された表現型―自然淘汰の単位としての遺伝子

池田信夫ブログ 神は妄想である 書評
 池田信夫は「科学と宗教の境界は曖昧だ」と言う。それはカレーと肉じゃがの境界が曖昧だと言うのと同じことです。
 池田信夫は「本質的な問題は、神がそれほど無意味なものなら、なぜ宗教が世界に普遍的に存在するのか、ということだ」と問い、その証拠が示されていないから不備があるという。とんでもない、証拠なら示されているのです。宗教が普遍的に存在したのは、それが延長された表現型として有効だったから、それだけです。科学と同じ理由から生まれた宗教というレシピは、長いあいだとても有効なレシピだったのです。
 でも、科学はこと真実を探るということに関しては、宗教の比ではなく有効だということがここ数百年でわかってきました。で、宗教は、ある種の人類にとって、すごい邪魔になるってことも、わかっちゃったんです。だって進化論を学校で教えないのもゲイを差別するのも自爆テロをするのも全部宗教なんだもの(スターリンは偉大な宗教家です!たとえ話!)。

結論。

 とりあえず
「本質的な問題は、神がそれほど無意味なものなら、なぜ宗教が世界に普遍的に存在するのか、ということだ。」
「そもそも(呪術や道徳と区別される)宗教という概念が西欧文明圏に固有のものだということにも、著者は気づいていない」
 のどちらが真でどちらが偽なのか、もしくは二つは並立し得るのか、みんなで考えてあげよう。
 私はどちらも真だけど並立はしないと思う。じゃあ何で並立させているのかというと……ここから先はふしぎテクニックの世界へようこそ。なので、また次回。