ザイーガ消失。
http://korokorozaeega.blog54.fc2.com/blog-entry-547.html
大人の事情か、私もよくやられます、大人の事情。ふざけんな、って話です。
「グロいとかエロいとかでひとの価値を決めるのは、ヨクナイコトデスヨー」
早期復活を願います。
『トゥモロー・ワールド』を観て。
すばらしい感想はこちらでどうぞ。
http://d.hatena.ne.jp/samurai_kung_fu/20061128#p1
http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20061119#p1
他にもあるのですが、まずはこの二つを。そしてまだ観ていないひとは、劇場へ走れ。
昨日は興奮して変なことを書いたのですが、そのまま私は変なところで変な話を書きたい。明日、また続きを書くので、それまで山形せんせいのコレを全部読んでおいてください。私は山形せんせいの意見に全て同意するわけではないけれど、前提として共有しなきゃならない発想が多いのです。情報の高密度パッケージ、なんてすばらしい造語でしょうね、シロマサシロマサ。
それはある意味で、ぼくたちがポルノを見て興奮するようなものだ。ぼくたちは、それが紙の上のインキだというのを知っている。セルロイド経由で投影された光だったり、モニタ上のドットの集まりだというのを知っている。そこに実体としての肉体があるわけじゃないのを知っている。知ってるけど、見て興奮してしまう。それはぼくたちの情報処理系が、多少手抜きをしているからだ。本来であれば、「これは本当にチンコをたてるべき相手か」とか「これは本当にマンコをぬらすべき対象か」というのを厳密に判定すべきなんだけれど、これまでの人間の進化のプロセスでは、そんな必要はなかった。それっぽいものが見えていれば、途中を省略してすぐに興奮をはじめてしまえばいい。ポルノはそういう、人間の情報処理の手抜きを明らかにしてくれる。実はぼくは、ポルノに人気があるのは単に興奮するためだとは思わない。多くの人は、たぶんこの手抜きをおもしろがっている。「被虐のなんたら」といったタイトルを見て興奮する自分をおもしろがっている。そこには、ある種のアートをぼくたちがみて感動するのと同じ働きがあるのだ。
アート・カウンターパンチ
あと空中キャンプさんの2006年の映画をふりかえるにも参加したいので、それも書く。一緒に。
わからないことは、悲しいことではない。
私はある時期から、全ての「映画」をつまらないと思ったことがない。なぜなら、ひどい映画も、クソみたいな映画も、すばらしい映画も、まだその映画に接していないひとには、同様に価値がないからだ。その中で輝くものを、人生に影響を与える何かを観たときに、私はそれを誰かにも知ってほしいと思う。そのためには、あらゆる面から映画を観なければならない。
つまらない、という感情は知っている。だからこそ、それがもたらす無駄な時間に耐えられないのかもしれない。仕事ではないというのもあるだろう、映画の映画的な部分に関して、ただ改善案を言うことに、積極的な欲望を持てなくなってきた。
そりゃ、私だってこの日記で「映画」を悪く書くことがあるが、そう書いても本来の意図は伝わるだろうという見込みがあるのかもしれないし、そもそもそれを映画だと思っていない場合だってある。それが映画っぽい何かだとすれば、私はそれを映画と同じように甘やかしはしない。私は映画に甘い。
だから私は、映画にまつわる映画以外のことを、本当にクソだと思う。
政治や、宗教や、時代や、歴史は、映画に従属すべきものであって、それ以上ではない。映画さまは私にとって、ヒルコ神のようなものだ。最も役に立たず、最も気高い。憎しみも喜びも苦痛も快楽も全て飲み込んで目の前で見せてくれる。映画は他の何でもない。黒沢清の本に、こんなようなことが書いてあったような気がする、間違っているかもしれないが、私もそう思う。動く椅子に固定されて回転するノコギリへ進む、椅子は止まらないしノコギリも止まらない、泣こうが叫ぼうが終わりが来るそのときまで映画は続く。
そんなふうに思いながら、ある種の疑念がわき始める。映画は確かに映画だが、それを楽しむ私の脳には映画以外のものがあり、それと映画は何らかの反応を起こす。それは不純なことではないか?純粋に映画そのものを楽しめているのだろうか? だがもちろんそんな疑念は子供じみた言葉遊びに過ぎないことも、すぐにわかる。私の脳がまっさらな空白なら、私は映画をちっとも楽しめないだろう。そもそも私はスクリーンに映った光と影が何かを理解できないだろう。
私はいつも、誰もが全ての映画を楽しめればいいのにと思っていた。必要な知識や、想像する景色や、言葉の壁や、思想信条が邪魔することなく、誰もがその映画を楽しめればいいと思っていた。けれどやっぱりそれは無理な相談で、映画は他の芸術と同じかそれ以下の役立たずだ。
そう思って、悲しんでいた。
だけど、それは、他のどんな分野でも、同じことだ。私は運動不足だから42.195キロを走り抜ける快感を得るためには大変な努力が必要で、その努力をしない私に42.195キロを走り抜ける快感は訪れない。同じように。ある「映画」をわからないのは、やっぱり観た者の責任だし、そのために映画が犠牲になってはならない。マラソンのコースを私の走りきれる距離に改変しても、私は永遠に42.195キロを走り抜ける快感を得ることはできない。
だから、わからないことや、つまらないことは、悲しいことではない、怒るようなことでもない、理解できないのは頭が悪いからじゃない、悪気があったわけじゃない。選ばれなかったのではなくて、選ばなかっただけなのだ。だから私はもう怒らないし、悲しくもならない。ただ書くのだ、それがどれだけすばらしいかを。
『トゥモロー・ワールド』が見せたもの、既に失われたすべて。
冒頭、爆弾によって破壊された店から、フラフラと女が歩き出る。聞こえる叫び声がその女のものかどうかはわからない、女はちぎれた腕を反対の手で持っている。暗転。タイトル。
失ったものは、もう戻らない。美しい風景には常に死体を焼く煙が見える、薄汚れた顔の移民たちには祖国がない。美術品を集める、薬を飲む、何のために?それはもう、失われてしまったからだ。似たものはいくらでも作れるだろう、けれど、それはもう違うものだ。
すべては失われる、あっけなく、唐突に。そこに理由を尋ねるのは、あまりに残酷で無邪気に過ぎる、誰が答えられるだろう? 私たちはもうすぐ滅ぶのだ。私だって、いつかは死ぬの。どうしてその意味を尋ねることができる?
私が最初に涙を浮かべたのは、なんということはない、車で林道を走る場面だ。それは、私が見たことのない景色だった。なのに私は、それをとても懐かしく思った。それだけで充分だった。
フィルムが回る、流れていく、もう二度と会えない。さようなら。
すばらしい感想追記
私は興奮すると寝言ポエムを垂れ流すので、もっと読んで面白い感想を書きたいと思うんですが。なかなか難しいですね。
Shit Happens!
笑わせすぎです!宇宙戦争の画像に「何で宇宙人が…」ってのも欲しかったっす。
「トゥモロー・ワールド」を見たゼ!(二回目)
本当に、何度でも観れる、密度の高い映画だと思います。
オルタナティブの年。
本当に今年は濃い年でしたね、来年はバーホーベンの新作も出るし、別の意味で濃そうですが!
2006年の映画をふりかえる
- 名前(id、もしくはテキトーな名前)/性別
screammachine 麻草郁/男
- 2006年に劇場公開された映画でよかったものを3つ教えてください
「デビルズ・リジェクト〜マーダー・ライド・ショー2〜」
「宇宙戦争」
「トゥモロー・ワールド」
- 2で選んだ映画の中で、印象に残っている場面をひとつ教えてください
どこまでも続きそうでいて続かない道を、それでも最後まで走り続けるところ。
- 今年いちばんよかったなと思う役者さんは誰ですか
ビル・モーズリイ。
- ひとことコメント
二本が原作つきで、どちらも丁寧に原作をファックしている点が評価の高さ。いやデビルズ・リェジェクツだって前作をファックしてるか、つまりそういうことだ。私が映画を観るのは、私の中にあって形のないもの、私の中にまるでなかったものを、ズドンとショットガンのようなもので打ち込まれたいからなのです。
三年前、彼らはそこにいた。
馬鹿と拳銃。という作品です。
自分で作ったものを観ると、本当に人様の作ったものに何か言えたもんじゃないな、と考えたりするんですが、この作品だけは、改めて見ると「何も知らないくせによく作ったな、偉いぞ」と思います。だいたい映画というものを真面目に考えるようになったのも自分で撮ってみたからであって、なんとなく鬱屈としているひとは一度撮ってみたらいいと思う。楽しいよ。
『馬鹿と拳銃』は、仕事で書いているものに比べても言い訳のない作り方で、即興で撮ったせいか必要最低限のことしか描かれていなくてとてもよろしい。だいたい話にかかわりのない誰かを出さなきゃいけないって事自体、映画とは無縁の出来事であってほんにこの世は難しいわ。などと仕事の愚痴を書いてみても実のところキャンペーンに参加したいだけなので困った(私が)Wii欲しい!でもテレビない。Wii欲しいのにテレビない。彼らは今何をやってんのかしらね、消息知ってるひとはご連絡を下さい。