絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

『時をかける少女』試写会

 応募したら当たったので行きました、ブロガー向け試写会。
 どうしてブロガーを招待したのか?そりゃ、自信があったからだ。本当に面白かった。やられた。アレですよ、招待されて褒めると「タダで見たからだろ」とか「ポスターもらったからだろ」とか(以下略)思われてしまうんじゃないかという自意識が出てくるんですけど、この『時をかける少女』に関しては……ごめんなさい、今のところけなす部分がない。
 悲しいことに、世間でひどく言われている映画を擁護するか、ひどい映画をひどいひどいと書いてきたおれは、どうも普通にいい映画の感想が書けない身体になってしまったらしい。不幸だ。まあそういうわけなので、大変申し訳ないんだけど、他の映画をダシにして「面白さ」について考えてみたいと思う。ちゃんとした(?)感想は一緒に行ったid:kotokoさんとid:reriさん、そして公式ブログにトラバされている方々が書いているので、そちらをごらんあれ。

 試写会の前夜、おれはあるアニメ映画を観ていた。それが何という作品であるかは、これから書くことがその作品に対する批判であるが故に伏せる。理由はふたつある。ひとつはこれから書く文章が、その作品に限定されない物語全般に通じる話だということ。もうひとつは前知識ナシにその作品を観ることで感じた気持ちの解決策として、この話を書こうと思ったからでもある。おんなじ気持ちにさせてやる、でも解毒剤も作っておくぜ、ってわけ。
 ここでおれは、つまらんもんはなぜつまらんのか、ではなく、いつつまらんと感じるのか、ということについて延々と書きたい。そして、面白い作品がいつ面白いと感じられるのか、についても。

おれたちはずいぶん遠くまで来てしまった。

 いまこの文章を読んでいるきみが何才かはわからないが、少なくともこの記事をここまで読めたくらいなのだから、小学校の高学年よりは上の年代に属するんだろう。そんなきみはアニメに限らず物語に興味があり、面白いものとつまらないものに、漠然とでも区別がつくようになっているはずだ。なぜならこの記事は劇場用アニメ映画『時をかける少女』について公開前に書かれたものであるうえに、なんだかえらそうな前段からどうやら面白さとつまらなさの秘密を探ってみようとしているらしいとがわかるからだ。
 さて、どうしてこの文章はこんなに前置きが多いんだろうか?
 おれたちは省略することに慣れている。あらゆることをいちいち確認していたら時間がいくらあっても足りないからだ。上の文章には、当たり前のことばかりが書かれいてる。多くの小学生低学年はほとんどの漢字が読めないからそこまで進めないだろうし、ある記事を読むのはその記事が扱っている事物に興味があるからだ。そんなことは当たり前で、確認するまでもない、時間の無駄、資源の浪費。
 だから、おれたちは、省略してあるものに快感を感じるように進化した。
 長いものは短く、頭文字をとったり四文字にしたり、わかってるでしょ?アレだよアレ、ギャグの解説ほど寒いものはないってね。バックグラウンドさえ知っていれば、実際にそれを繰り返す必要はない。
 だから世の中には省略されたものばかりがあふれた。テレビをつければ笑えるバラエティ番組、本屋には30分で泣ける本が平積みされ、アニメだって萌えたり燃えたり忙しい。
 でもなんとなく、これって違うんじゃないかなあ、っておれは思う。いやいや、確かに萌えたり燃えたりするのは楽しい。批判するひとは、そんなのは動物化で、脳内のデータベースを参照して快感装置を組み合わせてるだけだっていうけど、もともと脳ってのはそういう機能を持っているじゃないか、恋愛だって国家だって幻想だっていうじゃないか。確かにその通り、だけど話を大きくすればだいたいのことは相対化できる、ここは細かく本当に面白いってのはどういうことなのかを突き詰めてみよう。いろいろなことを省略しないで、いちいち確かめていこうじゃないか。まあこの文章だって結構な部分を省略しているんだけれども。

泣ければいいというものではない。

 いわゆる泣きのシチュエーションというのがある。ひとによって違いはあるが、泣きのシチュエーションが確定すると死亡フラグが立っただけで泣けたりする。たとえば戦場で新兵が地元で待っている恋人の写真を……ってのはあまりに古いけど、少しパターンを変えればいくらでも通用する。
 ただ、これはつまるところ、脳に電極を刺して射精しているのと変わらない類の快感だ。確かに何度でも泣ける、飽きない、燃えられる。だけど脳内で再生できるもんを、なんでわざわざ金を払ってまで観なきゃいけないのよ。
 省略を多用すると、そんな余計なことを考える隙間が生まれてしまう。

成長物語の語り部はどうあるべきか。

 つまらんアニメに限って主人公が説教くさかったりして鼻白むことがある。うじうじ悩んでいた主人公が成長する、それはいい、成長物語ってのはそういうもんだ。でもそのきっかけやら乗り越えた理由なんかが提示されないと、なんだか胡散臭くなってくる。観たいのは成長したところじゃなくて、成長する瞬間なのに。あれ?ちょっと主人公成長したっぽいけど理由は?ブツブツ言ってただけじゃない?えっ、今の説明で終わり?なんて思っていると画面の中で晴れ晴れとした笑顔の主人公がなんだか気持ちの悪い別の世界の生き物に見えてくる。
 いや、気持ち悪いのはその物語の語り部だ。おれたちは人間がそう変わらないってことを知っている、誰だって乗り越えられない壁は持っているし、それに関して悩んだり、考えたり、答えが出なかったり、苦しんだりしている。そして乗り越えたと思った途端に壁は立ちはだかる。だからこそわかりやすい敵と戦ってくれるアニメの主人公はあこがれの存在だ。血をながして、歯をくいしばって、勝ち目のない戦いに挑む主人公(それが勝ち目のない恋愛でもいい)は、おれたちが現実の制約の中でやれないことをやらかしてくれる。あこがれるのは成長するからじゃない、戦うからだ。
 つまらんアニメの主人公は、戦わない。語り部が、戦っているところを見せてくれないのだ。
 その理由はわからない、戦わせたくない理由なんていくらでもあるだろう。もう充分に彼は苦しんだ、そっとしておいてやってくれないか。とかなんとか。
 いやいや、だったら戦う物語を作るな。敵と戦わないで成長する話にしてくれ。

物語から離れたとき「それ」は輝きを失ってしまう。

 でもなあ、戦わない主人公がグダグダする物語だって、それを求めている観客にとっては観る必要があるものだろう。ではそういう「なぜ」が人それぞれとしたら、好き嫌いを超越して物語をつまらなく感じてしまうのは「いつ」なのか。
 豊富な脳内データベースにアクセスするような作品は、省エネがきいていてお手軽で楽しい。だけどそれはやはり、脳内にあるもの以上の快楽は与えてくれない。脳神経がつながりはじめたころの身が震えるほどの驚きや、喜び、哀しみや怒りは、結局のとことそれが外部であることを認識できるほどに差異を持っていなければならない。
 だから集中して物語を見ているときに安易なデータベースを利用されると、それは鑑賞の害となる。「ありがち」「ダサい」「ご都合主義」と思うのは、それが脳内データベースの中で消費され尽くしたものだからだ。泣きのシチュエーションを多用したって結果は同じだ、見終わったあとで「泣いたけどさあ、あれって……」となってしまうのは、それが物語の中で多触手的な役割をになっていないからだ。いわゆる「浮いてる」って奴だ。

結論

 さあ、その面白くないアニメについてはよーくわかった。じゃあ『時をかける少女』はどうだったのよ?面白かったってどう面白かったの?
 ネタバレ禁止だから何も書けないけど、上にあげたものと正反対のものを思い浮かべればいい。
 萌えもある、燃えもある、笑いも、涙も、怒りも、哀しみも、人間の全てがそこにある。
 面白かった、あの試写会場で過ごした時は、忘れることができない。
 おれは必ず、劇場にもう一度足を運ぶだろう。
 かけもどるんだ、あの時へ。脳をふっとばされた、あの瞬間へ。
http://www.kadokawa.co.jp/tokikake/
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コンナノ呼ばわりはいいんだけど。

 これは、おれがなにを基準にどう考えているかについての話だ。

先生は、やっぱ本物に思い入れのある人はこういうの許せないんだろなー、とか最初はひとごとのように思っていたのだが、コンナノとかコンナノとか、いわゆる有名どころがこぞってけしからんと言い出し始めると、まるで世間的には「ナンシー小関は批判してもオッケー」いや「ナンシー小関を批判しなきゃ文化人じゃない」みたいな雰囲気になってきたので、よし、先生も一発ナンシー小関とやらをおちょくってみるか、とやる気になったのだが
http://prof.suemeweb.com/log/eid676.html

 有名どころと名指しされてうれしい限りだが、おれの書いたことの追随者なんぞ見たこともなくて「麻草の言うことはうさんくさいから信じるな!」とかいう批判者ばっかり目にしているおれはどうも納得がいかないのだった。誰かおれの信者を連れて来いよ!仮想的な盲信者を設定して批判する手法はそれによる具体的行動がないと空振りに終わるから注意だよ!以上余談。
 上の引用で気になったのは、やっぱり日日ノ日キと並列されていることかな。光栄なことだと先に書いておくけど、ずいぶん乱暴なくくりだとも思う。確かにおれの文章もエモっているし、似ているけど違う議論に関しても否定しないで引用してたから仕方ないんだけど、誤解されたままじゃずいぶんと悲しいから、ちょっとだけ説明しておこう。
 まずは日日ノ日キから、当該記事の一部を引用してみる。

愛がないのだ。そのオリジナルよりも気軽にちょちょいのちょいこんな感じでしょ?こんなの簡単じゃない?バカみたい何年もやってて。みたいな視点を感じてしまうのである。
 そこに真の意味のリスペクト、尊敬はない。ないくせにあるフリをするからおかしなことになるのだ。開き直る覚悟がなけりゃ、オフラインでやってくれ!
http://d.hatena.ne.jp/./amiyoshida/20060618/1150615794

 うんまあ確かに似ている。手軽にやられちゃ困る、という点に関しては同意しますよ。だけどおれが「あれは彫刻ではない」と書いたことと「手軽に真似するな」ということは、実はあまり関係がない。あとおれは、パクるなら尊敬しろとかリスペクトだとかそういうことは気にしない。精神性というものは、作品を鑑賞する上で付加情報以上の価値はないと思う。まあそうではないと思いたいひとがいるからナンシー小関も「リスペクトしています」なんて答えたんだろうけれどもさ。相手が本当に何を思っているかは想像することしかできないし、その想像した相手に対して本気で怒るのは、まあだいたい被害妄想なので徒労に終わる。
 おれは、こう書いた。

繰り返す、これは手法の模倣ではないのだ。
彼は彫刻刀を握らない。
だが、そのことだけが、軽視され、隠蔽されていく。
http://d.hatena.ne.jp/./screammachine/20060617#p2

 これは、苦労してないからダメって意味じゃなくて、彫刻刀で彫られた似顔絵スタンプの完璧な模倣は(今のところ)不可能なんじゃないの?って意味だ。不可能なのに、可能っぽい顔をするのってインチキじゃないかなあ、と思うわけだ。
 もしも、完璧なナンシー関風版画風画像作成ソフトなんてものができたならば、おれは何の文句も言わない。写真をトレースすることなく、テレビに映し出されたいくつものサンプル動画から導き出された「似ているとその対象人物を知っている多くの人間が感じる近似値」を読み取って線に変えて、それにぴったりのセリフか効果音を書き加えるソフトができたなら、ナンシー関ver2.0とか名づけて売り出したっていいと思う。
 その辺が誤解されるとつらい。一番最初に小関を批判したid:samurai_kung_fu:20060613にも書いてあるじゃないか。

30分くらいで小関レベルの物は簡単にできる。
ナンシー小関。いらないな。

 なぜひとはオリジナルを崇拝し、模倣者を批判するのか?だというのになぜ一部の模倣者は高い評価を受けるのか?答えは意外と簡単だ。
 誰も、自分で作れるものに価値は見出さないのである。
 だからこそパクリでも「すっげー」と評価されるものはあるし、オリジナルでも評価されないものだってたくさんある。「これに価値は見出せない」という評価のかたちとしてナンシー小関ジェネレーターは生まれたんじゃないかな。そこに努力とか根性とかリスペクトとか、精神性の介在する余地はない、よね?
 手法は模倣されるべきだし、情報は複製されて多くの人間が共有するべきだと思う。
 だけど、それが間違ったまま伝わっているとすれば、是正することも必要なんじゃないだろうか?
 ナンシー関ナンシー小関の区別がつかない?まさかね、本当に区別がつかないならそりゃお気の毒。だけどもし痛烈な批判に対する恐怖心でそう書いているなら、無知や理解力の低さを推奨することがあなた自身の行動に矛盾を生じさせていることもお忘れなく。あなたがブログに記事を書けるのは正しい手法が正しく模倣され、改善されてきたからであって、無知や無理解はその邪魔にしかなっていない。
 間違ったコードじゃプログラムは走らない、そうでしょ?
 その間違いが技術と精神のどっちにあるか、っていうか、どっちが問題かって言えば、おれは技術だと思うんだよなあ。徹底した努力の前にやる気は無力、という話でもある。まあたかがナンシー関とも言えるが、されどナンシー関とも言える。たかされである。なにがであるだ。結局おれはこの一ヶ月でナンシー関って何度打ったんだ?生涯ナンシー打率で言えば上位に位置する季節と言えるだろう。上位って何だ、またやる気か。
 スミルノフ教授のブログには「マジレスは勘弁」って書いてあるから、これはスミルノフ教授に向けた返答ってわけじゃない、ってことにしておいてもらおう。