絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

なぜ○○をしてはいけないのですか。

 それは、それが公理だからだ。公理というのは「1+1=2」のような、証明する必要のない決まりごとのこと。「○○をしてはいけない」という決まりごとのほとんどは、その言葉を使う社会にとっては公理である場合が多い。
 たとえばおれが、日本の中で決められた「○○をしてはいけない」という公理を疑うとしよう。ちょっとこれ、おかしいんじゃないの?って思ったとする。だからっておれは日本語を疑ってデタラメな文字を書いたり、パソコンを疑ってキーボードを叩き割ったりはしない。
 それはなぜだろう。なぜおれは○○を疑いながらも、キーボードを叩き割ってデタラメな言葉を書き連ねたりしないんだろうか?
 数学の世界に、ユークリッド幾何学というものがある。その五番目の法則はこうだ。

  • 平面には互いに交わらない二本の平行線が引ける。

 平行線は交わらないから平行線だと思うよね、その通り。これは疑いようのない事実だと、けっこう長い間(千数百年くらい)信じられていた。だけどつい最近(二百年くらい前)に、この法則が違っても成り立つ新しい法則をガウスというひとが思いついてしまった。歪んだ空間の中では平行線が交わることもある。非ユークリッド幾何学ってやつだ、名前は聞いたことがあるでしょう。
 まァこんな感じで公理というのは状況によって変わることもある。なぜなら公理は自明のことであって、そもそもそれが正しいかどうかは証明できないからだ。
 そんなわけで、もし人間が始めて見た文字を解読できるなら、おれはオリジナルの文字でメッセージを伝えられるし、そもそもメッセージの必要ない状況だってありえる。パソコンの入力方法が変わればキーボードなんてゴミになる。
 ところがおれはそんなことを想像しない。おれは「なぜキーボードを無意味に叩き割ってはいけないのですか」って質問をしない。なんでか。おれはパソコンと脳が今この瞬間に直結するとは思わないからだ。
 さあ、答えが見えてきた。「なぜ○○をしてはいけないのですか」という質問は、そのほとんどが「今すぐ可能」であることに対して使われる。
 おれがキーボードを叩き割ったり意味のわからない文字を書き連ねながら叫ぶ「なぜ○○をしてはいけないのですか」という質問と、おれがインターネットに日本語で書き込む「なぜ○○をしてはいけないのですか」という質問には大きな隔たりがある。
 なぜなら、いますぐできることなのに、なぜしてはいけないの?という質問は、実は「面倒くさいことはしたくないなあ」ということの"裏返しの表明"だからだ。
 狂うのは面倒くさい、うんこを壁に塗ったり、奇声をあげたって誰も注目してはくれない。だからおれはインターネットや日本語という公理は疑わず、楽に疑えるものだけを疑おうとする。そうすればみんなかまってくれるし、ぼくもそんなに悪い気はしないはずだよ。といった具合だ。
 だけど、それはずいぶんと、ずる賢いやり口じゃないか。
 なぜ○○をしてはいけないのか、それはおれが生きている世界の、他の公理を疑ってから、自分で考えるべき問題だ。楽をしてはいけない、関係する資料を読んで、ひとと話して、考えて、考えて、考え抜いて、それでもわからなかったら問題そのものが間違っている可能性を考えなきゃ。
 そうすれば、答えは得られなくても、勉強にはなるだろう。
 うーん、何で楽をしちゃいけないんだろうか?
 まァ、それについては自分で考えるよ。