絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

飛行機は飛ぶ。

 まあ昔から遠出が苦手で、なるべくならば家から出たくない、ベッドか布団、もしくは炬燵の中ですべてを済ませたい、そう考えていたわしが、仕事で年に何度も海外へ渡航するとは思っていなかった。とはいえ行先は中国香港台湾に限られているのだが、この先どこへと向かうのかは知れたものではない。成田空港に向かう道筋も慣れたもので、こうしてフライト前に充電ポイントに陣取りノートパソコンを開いて日記など書けるまでに成長した。出国チェックもスムーズで、過去には国内旅行ですらバンバン止められて、カバンの中のペットボトルを捨てられ、カッターナイフを没収され、靴を脱がされ、ズボンのベルトまで外すことを強要されていたころに比べて、なんと優雅なことか。まあその頃は金髪だったり銀髪だったりスキンヘッドだったり皮ジャン安全ブーツだったりしたわけだが。今では戸惑うことなくにこやかにゲートをくぐることができる。この全能感、そりゃあ充電ポイントでノートパソコンを開いて日記を書こうというものだ。
 要は、のぼせているのである。
 人生において、のぼせた事は何度もあるが、だいたい手ひどい目にあって目が覚めた。のぼせた挙句に風呂桶を破壊して路上に転がり出た事もあれば、風呂だと思って肩までつかっていたら一人だけ肥溜めにいた、なんてこともあったかもしれない。比喩表現である。わしはのぼせやすい、おだてると木に登ってそのままジャンプする、うまくおだてると面白いポーズでかっこうつけて落下する。写真におさめれば飛んでいるように見えなくもない。羽もなく浮くための風船もないから、いつまでたっても滞空時間は長くならないが、何度も落ちているうちにうまい落ち方を見つけたような気もする。気のせいかもしれない、なにしろのぼせているのだ。
 やがて飛行機の搭乗時間がやってくる。行きはあちらが用意してくれた普通の便なので、機内食や機内映画を楽しめる。帰りは自己都合で香港に寄って帰るので激安便だが、これはまあ仕方がない。ビジネスクラス、ファーストクラスといったものには乗った事がない、これから先なにかの間違いで乗れるようになるかもしれない。乗せてもらえるようになるまでは、勝手に落ちないように気をつけよう。
 飛行機は飛ぶ、かっこうつけて落ち続けた男を乗せて。

どんなものでも5年、10年

 むかしから師匠に言われていた。どんなことでも10年やり抜ければ形になる、5年で作り上げて、あとの5年を駆け抜けろ。20才のときに「お前役者向いてないからやめろ」と言われ、いろんな仕事をした。マネージャーとか、ADとか、文章の仕事をしたり、しなかったりしていた。なにひとつ5年と続かなかった。30代の10年が大事だとも言われた。でもぼくは、30才になってもふらふらしていて、形がさだまらない、もやもやした生き物だった。20代のころは明滅するあかりのなかのきれいな思い出しかない。出会った人々は今でも大切に思っているけど、それらはすべて思い出の中の話だ。
 人間は不定形の存在だ、まわりの人間が型となり、関係性によってその人間は決まった形を持つようになる。ふらふらふわふわしていたぼくには、何の形もなかった。いろんなことができるけど、なにひとつものになっていない人間以前の存在、それがぼくだった。
 17才のときに出会った友達がいた。彼はぼくにたいそう期待をしてくれていて、その期待にこたえられないぼくのことを見捨てなかった。たくさん話をして、たくさんの物語を作ろうとした、二人でいろんなことをやろうとしたし、じっさいやった。ぼくは彼に報いたいと思った、でも、思っただけだった。20代のなかばに彼はいなくなった。もう、どこにもいない。
 脚本を書かないか、どんな題材でもいい。そう言われて書いた作品の初演の打ち上げで、挨拶を求められたぼくは「これは本当にあったお話です」とだけ伝えた。それを言うまでぼくも、その話が何を描いているのか、わかってはいなかった。そうだ、これは本当にあったお話なんだよ。
 あれから5年が経った、ぼくには少しだけ形ができた、できたと思う、たぶん、そうだろう。人間は不定形の存在だ、まわりの人間が型となり、関係性によってその人間は決まった形を持つようになる。ぼくの作品にはたくさんの人たちが関わっている、そのたくさんの交流電灯が同時にまたたくと、その隙間に、彼が現れる気がする。太宰治にちょっと似ていた彼は、いつの間にか美少女になってしまったが、これからもぼくのまわりに遍在する。あと5年、駆け抜けてみよう。

千秋楽おめでとうございます。

『アリスインデッドリースクールオルタナティブΩsakA』そして『遥かなるミドルガルズ』ご観劇ありがとうございました! 両作品とも、素晴らしいスタッフさん、そして素晴らしいキャストさんに恵まれて、たくさんのお客さんに観ていただきました。ほんとうにほんとうにありがとうございます。
自分の作品が劇場にかけられるときは、なるべく初日に観るようにしているのですが、スケジュールや場所の問題で行けないときもあります。しかも今回は、二作品が同じ週に上演され、片方は大阪上演ということで、かなり悩みましたが……行っちゃいました、大阪。ミドルガルズの初日に伺って、なぜか小道具に手を入れたりしつつゲネプロを観劇。オープニングの迫力、出演者たちのリリカルな演技、クライマックスの感動に涙しつつ、その翌朝にはもう大阪でした。
 安価な飛行機に乗り、安価な宿を取り、四泊五日の小旅行です。初日ゲネプロを観劇。こちらのオープニングも最高! 涙を搾り取るエモーショナルな演出、これでもかと繰り出される役者の身体的魅力、全てが期待以上でした。友達におすすめしてもらった天王寺お好み焼を食べたりと、大阪も堪能。ただ、原稿が詰まっていたため、観光できたのは初日だけ、あとはもう劇場とホテルを往復するだけの日々でした。初日には歓迎してくれた出演者たちも、三日目ともなると「あれ? この人また来てる……」みたいな視線が痛かったですが(うそです、ちゃんと挨拶してくれる良い子たちでした)、しっかり観劇できたので、ぼくは満足です。
 あとこれ関係ないんですけど、むかしは金髪だったり白髪だったりスキンヘッドで皮ジャン安全靴だったりしたためか、国内線の空港のゲートでも必ず止められて服を脱がされていたんですが、最近は海外渡航も増えたせいでしょうか、ゲート前で荷物を出し、笑顔で通り抜ける癖がついたためか、一度も止められたことがありません。慣れってすごいですね。
 そして東京に戻り、ミドルガルズ千秋楽を観劇。今に至るというわけです。強行軍でしたし、かなりのしわ寄せが来てますが、後悔のない良い旅になりました。お世話になった皆さまにお礼がしたい。本当にありがとうございました。またどこかでお会いできることを願って、さようなら。
 
 

今年もいろいろやりまする。

麻草郁です、舞台の脚本を書いています。2010年に書いた『アリスインデッドリースクール』は、おかげさまで5年後の本日も元気です。月刊誌の「電撃だいおうじ」では小島アジコ先生によるマンガが連載中( http://daiohg.dengeki.com/lineup/1412/ )、2013年には『アリスインデッドリースクールオルタナティブ』( http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_id=43598 )として再演されました。
そしてなんと今年は大阪で『アリスインデッドリースクールオルタナティブOSAKA』(http://alicein.info/)が上演されます。タイトル打ち合わせで「オーサカの綴り『ΩsakA』にしましょうよ!オメガではじまりアルファで終わる、まさに世界の終わりのはじまりといった感じの」と提案したのですが「読めなくない?」の一言で却下されました。
Alice in Deadly School Alternative ΩsakA
かっこいいのに。
そして再演といえば舞台『遥かなるミドルガルズ』も今年の2月に再演。しかもこれは、大幅に脚本を直し、歌を増やしたミュージカルバージョン。本日から絶賛チケット発売中です(http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_id=62455)。
さらにさらに、爆笑必至のスタイリッシュコメディを標榜する演劇ユニットMOSHさん(http://www.tambourine.co.jp/stage/mosh08/)のコント脚本を書きました。はじめて客席から見たときから脚本提供するのが念願だったのですが、とうとう叶った感じです、どんな風に演じてもらえるのか楽しみですね。
それと、アリスインプロジェクトさんとの縁で歌詞を書いてるアイドルグループアリスインアリスのワンマンライブが1月14日にあります(http://aliceinalice.info/)。
シングル曲のPVも手伝いました。

そんな感じで、今年もいろいろやりますので、2015年もよろしくお願いします! 今更。

『ベイマックス』まだ観てない人と『ベイマックス』観たけどなんかスッキリしなかった人向けの話

映画『ベイマックス』観ましたよ! いやあ面白かった、んで未見の友達に冒頭数分のあらすじを話したら、そんな感想だれも言ってない、お前の妄想だろう、って言われたので、まとめてみた。要するにネタバレだ。だが、このネタバレは果たして真実なのか、それとも私の妄想なのか? 真偽はキミの目で確かめてほしい。

舞台は近未来、San Fran 奏京

霧煙る大都会、サンフランソーキョー。風力発電バルーンが高層ビルの谷間からケーブルをのばして空に浮かんでいた。広告と、ネオンと、鳥居が混在する街。その路地裏で、今宵も過酷なロボット同士の違法な賭けバトルが繰り広げられている。
唸る電ノコ、千切れる手足、丸いドヒョーの上で戦うロボットは、互いの体を文字通り削り合いながら相手が動かなくなるまで戦い続ける。
差し向かいで座るプレイヤー、一人は目の周りを黒く塗りボンデージ服に身を包んだパンク少女、そしてもう一人は巨魁をゆすって笑うスモウレスラーのようなジャージの男……。
「勝負あり!」
眼帯をつけ、和傘を持ったレフェリーらしき美女が、スモウジャージの勝利を告げる。パンク少女のロボットは既にバラバラだ。
「さあ、俺に挑む奴はいないのか?」
凄みを効かせるスモウジャージの声に、恐怖の声もなく自らのロボットを破壊し勝負から逃げる臆病者たち……その中から、一人の少年が歩み出た。
「ぼく……挑戦します」
だが、まだ幼くおびえた様子の少年を観て、周囲の大人たちは鼻白む。
「ぼうや、戦うにはお金がかかるのよ」
「持ってきてます! これで、足りるよね?」
少年は握りしめたくしゃくしゃの数ドル円札を差し出す。それは誰の目にも、彼が少ない小遣いをためてこの日のために用意したなけなしの金に見えた――スモウジャージが口の端をまげて笑う。
「いいぜ、勝負だ、小僧」
「ぼくは、ヒロ・ハマダ」
「いいから座れ、負けても泣くんじゃねえぞ、"小僧"」
ヒロの持っていたロボットを見て、観衆は嘲りの笑いを向ける。磁力接合のボールジョイントでつながれたそれは、まるで黒いカカシのようだ。
勝負は一閃――ヒロのロボットは電ノコで分断され、ドヒョーに転がった。
「勝負あり…」
「待って! ……もう一回、もう一回だけ……お金なら、あるよ」
そう言ってヒロが差し出したのは、きれいにそろえられたズク(万札を10枚束にしたもの)だ。
あきれ顔だったスモウジャージの顔がほころぶ。カモだ、むしりとってやれ――あまりにもあっけない勝利に、スモウジャージの緊張感がゆるむ。
「いいぜ、何度でもやってやる」
返事もせずに、ヒロは再びドヒョーの端に座る。だが――空気が違う。さっきまでの怯えた少年の姿はどこにもない、そこにいるのは――一匹の勝負師。
「さあ……やろうか」
スモウジャージが返事をするよりも早く、ヒロの指先がコントローラーのスティックを叩く。転がっていたヒロのロボットが回転し――合体して――悪鬼のごとき表情に変わる。
まるで黒い蛇のように、ヒロのロボットは容赦なくスモウジャージのロボットを解体していく、どんなに抵抗しても慈悲はない。腕が、脚が、そして首が、もぎとられていく。
「やめろ、やめろぉ!」
スモウジャージの叫びもむなしく、ロボットは物言わぬ残骸と化した。ドヒョーの上には勝負の機微も勝利の感動もなく、ただ残虐で冷酷なモーター音だけが響いていた。
呆気にとられた観客たちを尻目に、勝金を持ったヒロは賭場から出ていく。それが当たり前であるかのように――
 

俺は見たんだ、この目を賭けてもいい!

「いや、嘘でしょ、それなら見たいけど――いくらなんでも」
と、友人は笑った。そう、私も信じられなかった。だが、スクリーンで繰り広げられたあの場面は、まぎれもなく『ベイマックス』の一場面だった。まるでニンジャ・スレイヤーのような舞台で、福本伸行の描くような天才少年が、目のくらむようなシグルイ勝負を見せてくれたのだ。これだけで観に行く価値はある、と言ったら過言か。
え? こんなボンクラな場面があるよ〜、って、そんな場面てんこ盛りの作品じゃん、って?
いやいや、安心めされい、この場面は物語を解釈する上で、ものすごく重要な意味を持つのである。見逃すと、なんともスッキリしない感じになる大切な場面なのだ。
この冒頭で描かれるのは、ヒロの根本にある精神の構造である。彼は無邪気で残酷なファイターだ。強き者が勝ち、弱き者は砕け散る、そこに疑問を持たない勝負師だ。そんなヒロに、兄がプログラムしたロボット、ベイマックスは問いかける。「ヒロ、それであなたはスッキリするのですか?」
映画のラスト、原語版では「ぼくたちは誰かって? ビッグヒーローシックスさ!」とヒロが言って終わるという。日本語ではその部分はカットされたが、それは大した問題ではないと私は思う。なぜならその前にヒロは言っているからだ。「兄さんが望んだ形とは違うかもしれないけど、ぼくは人助けをすることにした」
いや、介護ロボットの研究しろよ! ヒロ! なんでお前自分の命を危険にさらすんだよ!
……そりゃあ、そっちの方が、スッキリするからである。
ヒロは兄が望んだ研究者の道を表の姿とし、仮面を被って再びヒリヒリする勝負の世界に戻っていった。作中でアメコミオタクのフレッドが言った通り、ヴィランにもヒーローにも表の顔と裏の顔があるのだ。そう、ヒーローという生き方は、どこまでいっても職業にはなり得ない。バットマンは大富豪、スーパーマンは新聞記者、スパイダーマンはカメラマン、アイアンマンは社長、ソーは神様、ハルクは科学者。いやもちろん設定としてヒーローが職業になっている作品はあるが、というかキャプテンアメリカとか普段はヒマそうだが、いやファンタスティックフォーは非営利団体だし、とか、まあいろいろあるが、職業としてのヒーローは主流ではない、だいたい昼はみんな別の職業を持っているもんである。それはなぜか? 常軌を逸した人助けとは、決して対価を求めて行うことではないからだ(常軌の範囲内の人助けは、消防士や警察官の役目である)。
なんだか面白かったけど、完璧だったけど、すごく気配りの効いた作品だったけど、けど、けど、けど、そんな感想を持った人には、この事を伝えたい。
ベイマックスには、ジョン・ラセターが今まで作って来た作品とは大きく違う点が一つあるんだよ。
これはね、ジョン・ラセターが初めて挑戦した、まっとうな部活映画なんだ。

職業ものを描き続けるジョン・ラセター

トイストーリー』が新鮮だったのは「おもちゃ」を職業に見立てたことだ。おもちゃたちにとっては子供を楽しませることが仕事で、そこには仕事につきものの出来事――新人は職場のルールを学ぶ、とか、毎日仕事のあとのミーティングがうざい、とか、ロートルは引退を余儀なくされる、とか……子供には知る由もないような話がたっぷり描かれる。『バグズライフ』は会社員とフリーランス集団の出会いの話だし『モンスターズインク』なんてそのまま「会社」だ。『カーズ』(レースカー)も『レミーの美味しいレストラン』(シェフ)も『ボルト』(犬俳優)も、みんな職業ものだ。ディズニーと組んでスマッシュヒットを飛ばした『Wall-e』はゴミ収集員がエリート社員と出会う話。次に作った『シュガーラッシュ』は「悪役」という職業に悩む男の話。もちろん『カールじいさん』『ファインディング・ニモ』『メリダとおそろしの森』っていう人生そのものを描いた作品もあるんだけど、割合で言ったら職業ものの方が多い。(ほかのスタジオが同じような設定なのにすぐ人生ものに舵を切ってしまうのも面白い事実なんだけどこれは割愛)。ちなみにカーズのスピンオフである『プレーンズ』『プレーンズ2』はちょっと子供に見せるのはきついレベルの職業ものなので私的には大変おススメです。閑話休題
かようにラセターという化け物は、職業ものを描くのに長けた男なのである。
様々な解釈飛び交う『アナと雪の女王』ですら、無職が就職する話として解釈すると、話の筋がまとまる。特殊な能力を持て余したエルサが一度は山に引きこもって「氷の彫刻家になるわレリゴー」って間違った選択をして残念な感じだったのを「いや、町で氷を作ればいいのよ」って就職させて、みんな安心するのだ。
だが、ここにヒーローものとの大きなすれ違いが起こる。ヒーローは世間の裏側にいるものであり、ライフスタイルであり、生きがいであり、趣味であり、奥さんには理解されないものであり、出張中に捨てられかねないものなのである。『Mr.インクレディブル』というのは、そういう映画だ。だからあの映画はすっごくテンションが上がったところで、なんだか急にスパっと断絶して終わる。その先を描けないのである、描いたら『アナと雪の女王』になってしまって、ヒーローではなくなる。町の便利な氷おばさんになってしまう。
そこで新しい(実は古い)作品の視点があてはめられる。そう、部活だ。

サークルから部活へ、

モンスターズ・ユニバーシティ』は、映画『アニマル・ハウス』や『ポーキーズ』などの大学サークル映画が元ネタである(『キャリー』のパロディもあったりするが)。大筋は就職に至るまでの物語だが、そこで描かれるのは人生の行く先を決める前の執行猶予期間だ。彼らは若く、人生はまだ長い。先の長い人生のある一点で、彼らは交差する。サークル活動を通して彼らは笑い、怒り、泣き、微笑み、そして成長する。だが、それは人生の終着点ではない――入口ですらない。サークルはサークル、どんなにその瞬間は命を賭けていても、いつかは彼らも就職し、その日々を思い出として語るのだ。
だが、部活は違う。大学を卒業しても、就職しても、リタリアしても、部活はどこでも続けられる。ママさんバレーチームだってあるし、ろうがんずに入ればみんなでプラモデルが作れる。あくまで趣味であり、遊びであるにも関わらず、それは生きがいであり、ライフスタイルになり得る。
あるところに、一人のまだ未熟な者がいた。その者は、力を持て余していた。やがてその者は、あるひとつの部活に触れ……自分の力の使い道を知る。部活もののセオリーだ。その者が誰かはわからない。運動神経のいい不良かもしれない、ただひたすら自転車をこげるオタクかもしれない。当てはまる作品はいくらでもあるだろう、それが職業ではないにも関わらず生き方を左右するものである限り、それは"部活"なのだ。
ベイマックス(Big hero 6)』は、そんな部活動としてのヒーロー活動のはじまりを描いた作品なのである。楽しもう、新しい挑戦を。

遥かなるミドルガルズ主題歌『水平線を目指して』

 わからぬことから いつも逃げてた
 みえないものには ふたを閉めてた
 なんにもしないで なにか待ってた
 ゆめみることしか できて無かった

 あきらめることを あきらめてみよう
 たちむかうことに たちむかってみよう
 誰かがしたことを もういちど
 自分の手で

 あの水平線を目指して 旅に出た人がいた
 砂浜に残る足跡を すこしだけ辿ろう
 同じ景色には たどりつけなくても
 その道が胸に浮かぶだろう

 運命が嵐なら 帆をあげて風を受けよう
 向かい風にあおられて 遠くに行けるから

 あの水平線を目指して 旅に出た人がいた
 砂浜に残る足跡を すこしだけ辿ろう
 同じ景色には たどりつけなくても
 その道が胸に浮かぶだろう

 Sky Faraway 水平線を目指して
 Sky Faraway 水平線を目指して

はてなは大丈夫なんだ

何が大丈夫かって、中国から閲覧更新可能ってことである。ビバはてな! そんなわけで私はいま中国にいる。あと数時間で空港に向かい、日本に帰るわけだが、今回はずーっと打ち合わせをしていたので、特に書ける思い出がない。だいたい機密事項です。
あっ、担当してくれた通訳さんが、たいそうな萌えオタ声オタだったため、移動中もずっとアニメの話をしていたのだった。この記事もいつか本人が読むと思うので、あんまりなことは書けないが、喋り方も何もかもが、いつでも秋葉原に常駐可能な立派なオタだった。アニメは『きんいろもざいく』が至宝で、熱血アニメも見るが『弱虫ペダル』は絵が苦手で見てないとのこと。なんでや! 御堂筋くん尊いやろが! と思ったが、そこは黙っておいた、話がややこしくなるからね。
あと興味深かったのは、なぜ声オタになったかの話。中国の声優さんは、アナウンサーのような棒読みで、興味が持てないから、らしい。走った時などの息遣いも浅く、真剣味が感じられないとか。記事などで読んだことはあったけど、じっさいに現地のオタから聞くと感慨深い。

「麻草さんは、食事はだいたい何でも美味しいですね」と前任の通訳さんにはからかわれたが、今回は五分五分。広東料理は薄味で、テーブルには辣油と黒酢しかないので、口に合わないと何をしても合わない。更にぬるぬるしてコシのない麺が来てしまったのが残念だった。が、魚介はどれも美味。初日の夜食で食べた雲呑麺(これは固い麺)のエビカニ雲呑も、絶品であった。

あとはなんだ、中国に行って何が残念って、いつも見てるサイトが閲覧禁止されてることをおいて他にない(言い過ぎた、デパートのトイレに紙がないのも相当だったし、流すな詰まるってのも大概にしろと思った、けども)。
TwitterFacebookの利用、Googleによる検索ができないだけでなく、個別のサイトにもアクセスできず、画像が表示されない事も多い。基準はまったくわからないが、何か目をつけられる事でもあったのだろうか。そういえば前に、全て人力で検閲しているという記事を読んだことがある、気がする。
そんななか、はてなはまったく影響を受けることなく閲覧可能であり、素晴らしいことだなあ、と思った次第であります。